映画『来る』は、中島哲也監督が描く異色のホラー作品として話題を集めました。
しかし、視聴者からは「ひどい」「気まずい」「琴子の最後が衝撃すぎる」など、賛否両論の声が多数上がっています。
本記事では、ネタバレありで琴子の運命や“あれ”の正体、話題のオムライスシーン、そして原作との違いまでを徹底解説。
観た人が感じた疑問やモヤモヤを解きほぐし、映画『来る』の本当の怖さとメッセージに迫ります。

\今だけ初回限定/
はじめに|『来る』はただのホラーではない
映画『来る』は、ホラーという枠組みに収まりきらない作品です。霊的な存在に襲われるという設定を借りながらも、実際に描かれるのは、**家庭内の分断、人間の弱さ、社会が抱える“見えない恐怖”**といった、誰にでも身近に存在する問題です。
観終わったあと、観客の多くは「怖かった」だけでなく、「なぜか胸がザワつく」「消化不良感がある」といった複雑な印象を抱きます。その理由こそが、この映画の“真の恐怖”であり、後味の悪さ=名作とも言える要因。
本記事では、ネタバレありで琴子の運命、“あれ”の正体、原作との違い、さらに“ひどい・気まずい”という視聴者の声の正体まで、徹底的に解説していきます。
作品基本情報|中島哲也監督が描く“異質な恐怖”
- 公式サイト:映画『来る』公式サイト
- 邦題:来る
- 原作:澤村伊智『ぼぎわんが、来る』
- 監督:中島哲也
- 公開日:2018年12月7日
- 上映時間:134分
- 配信サービス:Netflix/U-NEXT など
- キャスト:岡田准一(野崎)、黒木華(琴子)、妻夫木聡(田原)、小松菜奈(比嘉真琴)、松たか子(比嘉琴子)
この映画は、「ホラー×人間ドラマ×社会批評」という稀有なジャンルミックス作品として評価され、公開当時大きな話題を呼びました。
オムライスの意味とは?気まずさの演出
オムライス=壊れていく家庭のメタファー
映画『来る』の中でも視聴者の記憶に強く残るのが、琴子がオムライスを作るシーンです。
一見すると平凡で温かみのある家庭の一幕に見えますが、じつはこの場面には家庭崩壊の前兆と、琴子の心の叫びが込められています。
▶ 料理で「母らしさ」を必死に保とうとする琴子
琴子が作るオムライスは、家庭料理の代表格であり、子どもが喜ぶ“愛情の象徴”でもあります。
しかしこのシーンでは、彼女がそのオムライスを義務のように、執拗に作り続けている様子が描かれます。
- 「私はちゃんと母親をやっている」と自分に言い聞かせるように料理を作る琴子
- オムライスを作ること=母としてのアイデンティティの防衛
視聴者は、その行動の裏にある「本当は限界だけど、それを見せてはいけない」という苦しさを感じ取ります。
▶ 田原の無関心さが浮き彫りに
琴子の夫・田原は、家庭において何も手を差し伸べない存在として描かれます。
- 子どもの世話をしない
- 琴子の疲弊に気づかない、あるいは無視する
- 家庭の危機に鈍感で、どこか他人事のような態度
この夫婦間の温度差が、食卓という“家庭の象徴的な場所”で表現されることで、視聴者には言葉にできない違和感=気まずさが強烈に伝わるのです。
▶ 食卓なのに“恐怖”を感じさせる異常な空気
映画ではオムライスが盛られた皿や、無言で進む会話、ずれたリアクションなど、細部にわたって“違和感”が丁寧に描写されています。
- 温かい料理を囲んでいるのに、全く心が通っていない
- 子どもの反応もどこか不自然で、視線も落ち着かない
- カメラワークやBGMも不穏な空気を助長
つまり、このシーンは単なる家庭の描写ではなく、「日常に潜む異常性」をあぶり出すホラー演出なのです。
▶ オムライスはなぜ“怖い”のか?

通常、オムライスは「愛情のこもった料理」としてポジティブに描かれることが多いです。
しかし本作では、その“当たり前”を逆手に取り、崩壊していく家庭の象徴として機能させています。
- 見た目は普通、でも空気が明らかにおかしい
- 「家族でご飯を食べる=幸せ」という図式が成立していない
- それに気づいていないのは当事者だけ、という絶望
この「当たり前に潜む恐怖」が、観る人にとって強烈な“気まずさ”として心に残るのです。
ネタバレ解説|琴子の最後と“あれ”の正体

琴子の最期は「母性」の崩壊か?
映画『来る』における琴子の最期は、物語の中でも特にショッキングな展開のひとつです。
原作では琴子は生き残るのに対し、映画では**“祓い”の儀式の最中に命を落とす**という大きな改変が施されています。
この改変には、中島哲也監督の強いメッセージ性が込められており、それは単なる犠牲者としての死ではなく、社会が女性に押しつけてきた“理想の母親像”の崩壊を象徴するものとして描かれています。
▶ 琴子の“限界”と静かな崩壊
- 表面上は家事も育児もこなす“理想の母”として振る舞っている琴子
- しかし内面では、子育て・夫婦関係・孤独の重圧に完全に押し潰されている
- それでも「母親は耐えるもの」という呪縛から逃れられず、追い詰められていく
琴子は最期まで「娘を守りたい」という思いを捨てずに戦います。
しかし、守りたかった命も、自分の存在すらも“あれ”に飲み込まれていく。
この描写が観客に与えるのは、単なるホラー的な恐怖ではなく、母であることの過酷さと、個人としての限界を突きつけられる切なさです。
▶ 「理想の母親」は幻想であるという告発
現代社会では、「母親は強くなければならない」「家族のために尽くすべきだ」という暗黙のプレッシャーが今も根強く存在しています。
琴子の死は、そうした“美談”をホラーという形で破壊する強烈な反論でもあります。
- 子を想う気持ちだけでは救えない現実
- “母性”という言葉に隠された、社会の無理解
- 自己犠牲の末に待っていたのは“報われない死”
この結末は、「母であることが女性のすべてではない」という鋭い問いかけでもあり、多くの視聴者が琴子に自身を重ね、胸を締めつけられた理由でもあります。
“あれ”の正体は「誰にでも“来る”恐怖」
物語の中核にある“あれ”、すなわちぼぎわんは、従来のホラー作品に登場する幽霊や妖怪とは一線を画す存在です。
明確なビジュアルもなく、目的もはっきりせず、言葉も発しない。
その正体は、人々の心の闇に生まれる、目に見えない“概念”のようなものです。
▶ “ぼぎわん”は実体のない、でも確かに“いる”
- 形を持たず、人間の「恐れ」「妬み」「悪意」によって姿を変える
- 誰か一人に取り憑くのではなく、“社会”そのものに浸透していくような存在
- 「存在しない」からこそ、祓うことも、話すこともできない=根本解決が不可能
つまり、“あれ”は明確な敵ではありません。
それは“自分の中にもあるかもしれない”という内面的な恐怖を具現化したものなのです。
▶ “お前の番が来る”という警告
映画のタイトル『来る』は、「それ(霊)が来る」という意味にも取れますが、より深く解釈すると、「その不幸は、いずれあなたにも来る」という普遍的なメッセージを含んでいます。
- あなたが抱える怒りや恐れが、いつ“あれ”を招くかわからない
- 社会に満ちたネガティブな感情の中で、自分も無関係ではいられない
- “来る”のは恐怖ではなく、それを引き寄せる“きっかけ”なのかもしれない
このように、“あれ”はどこか遠くの存在ではなく、すぐ隣に、あるいは自分の中に存在するという気づきが、映画『来る』の真の恐怖なのです。
「ひどい」「気まずい」と言われる理由
「気まずい」と感じさせる演出の数々
映画『来る』が多くの人に「気まずい」と感じさせるのは、ホラー特有の驚かせ方やグロテスクな描写ではありません。
本作で描かれているのは、“家族の崩壊”や“社会の歪み”といったリアルで逃げ場のない人間の闇。
それが恐怖というよりも、不快感・沈黙・重苦しい空気となって画面にじわじわと広がるのです。
▶ 不快なほどリアルな社会問題の連続
- 父親による育児放棄と浮気
- 母親の精神崩壊と孤独
- 子どもに及ぶ無意識なネグレクト
- 家族間の会話のなさ、冷たい視線、心が通わない空気
これらの描写は、実際の家庭でも起こり得ることであり、だからこそ観客の心を深くざわつかせます。
▶ 「なぜこうなったのか」が語られない=説明不足の不安
物語は、あえてすべてを丁寧に説明しません。
それが「現実では誰も真実を教えてくれない」というリアリティを強調する反面、モヤモヤした不安を残します。
- 登場人物の背景が見えづらい
- 因果関係がわかりづらく、“観る側”に委ねられる解釈
- 感情移入しきれないまま、次々に事件が起こる
これらの構造は、「ちゃんと説明してよ!」という視聴者の欲求を裏切ることで、不快な気まずさを引き起こします。
▶ 感情的距離を保つ“冷たい”カメラと演出
- 登場人物を“突き放す”ようなカメラワーク
- 楽しげなBGMが流れる中で展開される陰鬱な出来事
- セリフに感情を乗せず、視線も交わらない会話
こうした演出が、「この家族はもう壊れている」というメッセージを強烈に突きつけます。
結果として、観客は情緒的に“放置”され、気まずさを感じることになるのです。
「ひどい」と評される背景
映画『来る』には、「面白い」「怖い」といった定番の感想の一方で、「ひどい」というネガティブな反応も少なくありません。
この「ひどい」という感想には、3つの大きな理由があります。
▶ ① 救いがない物語構造
- 登場人物の多くが死亡・もしくは精神的に崩壊
- ヒーローもハッピーエンドも存在しない
- 祓いも失敗に近く、勝利感がないまま終わる
観終わっても“スッキリ”しない、カタルシスの欠如が「ひどい」と感じる大きな要因です。
▶ ② ストーリー展開が急で情報過多
- 中盤以降、キャラの視点が次々と切り替わる
- ラストに向けての展開が怒涛すぎてついていけない
- 伏線が回収されているのかもわからないまま終わる
観客は「ついていけなかった」「混乱したまま終わった」と感じることが多く、結果として「ひどい」「疲れた」と受け取られがちです。
▶ ③ “恐怖”ではなく“精神的疲労”が残る構成
本作の恐怖は、幽霊が出てくるからではありません。
“人間の心の闇”や“家族が壊れていく様”が静かに描かれ、観客は感情を削られるような体験をします。
- 観たあとに「重い気持ち」だけが残る
- 明るい未来や希望が見えない
- 鬱映画とホラー映画の中間のような独特の後味
だからこそ、「どこに感動すればいいのか分からない」「気分が悪くなった」という感想が「ひどい」という一言に集約されているのです。
原作との違いと“その後”の展開
映画と原作の違いとは?
映画『来る』と原作小説『ぼぎわんが、来る』(澤村伊智著)は、ストーリーの大筋こそ共通していますが、人物の描かれ方、物語の重点、構成、そして結末に至るまで、多くの違いがあります。
▶ ① 琴子の運命が大きく異なる
- 映画版:琴子は“ぼぎわん”に憑かれた夫・田原を救おうと奔走するも、祓いの儀式の最中に命を落とす
- 原作版:琴子は命を落とさず、終盤まで生存。自身の過ちや苦悩と向き合いながらも、人間として“再生”していく余地が与えられている
この差は、映画が持つ“絶望的な恐怖”と、原作が持つ“人間の可能性”というテーマの違いを象徴しています。
▶ ② 比嘉姉妹の活躍の比重が違う
- 映画では比嘉真琴(小松菜奈)と姉の比嘉琴子(松たか子)が後半から登場し、除霊・祓いの儀式の中心人物として描かれますが、その背景は多くが省略されています
- 一方、原作では比嘉姉妹の能力・過去・関係性が詳細に描写されており、“異能者として生きる苦悩”や“人の業とどう向き合うか”が物語の主軸として展開
特に姉・比嘉琴子の強さと脆さ、妹との対立や絆など、原作ならではの“人間ドラマ”が光ります。
▶ ③ “ぼぎわん”の描写の深さ
映画では“ぼぎわん”の正体はほぼ語られず、抽象的な存在として描かれますが、原作ではその由来や行動原理に関するヒントが複数示されます。
- 名前の由来(「ぼぎわん」は東北地方の妖怪伝承に由来)
- どのような条件で現れるのか、なぜ“来る”のかというルール
- 過去に“ぼぎわん”に関わった人物の証言など、細かな積み重ねで恐怖にリアリティを持たせている
映画では“正体不明=怖さ”という構図で描かれているのに対し、原作では“知っていくことで深まる恐怖”が用意されているのがポイントです。
▶ ④ 物語構成の違い
- 映画は視点が頻繁に切り替わる“群像劇構成”で、田原・琴子・比嘉姉妹の視点を行き来します
- 原作はより“順を追って謎を解いていく”サスペンス型の構成で、読者の理解を深めながら恐怖がじわじわと迫ってくる
中島監督は、原作をあえて再構築することで、映像作品としての衝撃力を最大化しましたが、結果的に原作とは“伝えるもの”が異なる作品になっています。
原作における琴子の“その後”
映画では祓いの儀式中に命を落とす琴子ですが、原作では彼女は最後まで生き残ります。
彼女は精神的にボロボロになりながらも、“自分の弱さ”や“育児への後悔”と向き合っていく姿が描かれており、“母親”という役割を超えた“ひとりの人間”としての回復の兆しが見えてきます。
▶ 呪われた“被害者”ではなく、“再生する個人”としての琴子
- 自らの問題点に気づき、誰かのせいにするのではなく内省する姿
- 誰からも理解されなかった孤独を抱えたまま、それでも前を向こうとする意志
- 子どもに対して“もう一度やり直したい”と願う誠実な気持ち
原作は、琴子のように「母親として失敗したと感じている人」に、“それでも生きていい”という希望を示している物語でもあります。
▶ 原作を読むことで見えてくる“もう一つの来る”
映画が「容赦のない現実」を突きつける作品だとすれば、原作は「過ちの先にも道がある」という視点を与えてくれます。
映像作品としての刺激を味わった後に原作を読むことで、作品世界がより立体的に、そして深く理解できるはずです。
まとめ|“来る”とは何が“来る”のか?
映画『来る』の恐怖の本質は、見えないものが来ることそのものではなく、「誰の中にも存在する闇が顔を出す瞬間」にあります。
琴子の死、“あれ”の正体、家庭崩壊、救いのないラスト――それらはすべて、観客の心の奥底にある“不安”を刺激するためにあるのです。
「ひどい」「気まずい」と言われるほど、心に刺さる。
それがこの作品の異質な魅力であり、語られ続ける理由なのです。